田中悠「tsutsumimono」―境界をずらすことで、世界の見え方を変える
- 9 時間前
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Text:Ryohei Miki, Producer of Gallery Rin
田中悠「tsutsumimono」について――境界をずらすことで、世界の見え方を変える
田中 悠
1989年愛媛県生まれ、京都を拠点に活動する陶芸家・田中悠。代表的な「tsutsumimono」シリーズでは、まるで布で何かを包んだような有機的な形態を、すべて手びねりによって陶で制作している。国内外で作品が紹介され、美術館などにも収蔵されている。
田中悠の作品を初めて見たとき、まず強く感じるのは、そこにある「認識のずれ」だ。布で何かが包まれているように見える。しかし、実際にはそれは硬い陶器である。私たちは経験の中で、布は柔らかく、陶は硬いものだと認識している。その固定されたイメージが、作品によって静かに裏切られる。
ここには、「これは何なのか」という物質の分類を揺さぶる仕掛けがある。
しかし、田中の作品が興味深いのは、単に布と陶という異なる素材の境界を曖昧にしているからだけではない。作品には「何かを包む」という行為がある。包むという行為は、内側と外側を分け、ひとつの境界をつくる。
つまり作品の中では、一方で「布と陶」「柔らかさと硬さ」といった認識上の境界が揺らぎながら、もう一方では「内と外」という明確な境界が生まれている。

境界を壊すと同時に、境界をつくる。
この相反する二つの作用が、田中の作品には同時に存在しているように思う。
そして、包まれているものの「中身」は明確には示されない。何かが存在するように感じられるにもかかわらず、それが何なのかを私たちは知ることができない。その空白を、鑑賞者は自らの想像によって補完する。
ある人には物に見えるかもしれない。ある人には身体や記憶、秘密、あるいは大切な何かに見えるかもしれない。
つまり、作品の内側が空白であるからこそ、鑑賞者の内側に何かが生まれる。
この「包む」という行為は、日本の文化を考える上でも興味深い。日本では古くから、物を包み、覆い、収めるという行為が、単なる包装を超えて、保存、保護、贈答、礼法、茶道、祭祀など、さまざまな文化の中で意味を持ってきた。茶道具の仕覆や贈答の包みなどでは、包むことそのものが相手や物に対する敬意や配慮を表現する。また、神聖なものを覆い、内部を直接見せないことで、その存在を意識させる文化的な構造も見られる。
もちろん、田中の作品をこうした日本文化の直接的な継承として断定することはできない。しかし、「包む」という行為が持つ、守る、隠す、収める、伝える、そして見えないものを想像させるという多層的な意味を重ねて見ると、「tsutsumimono」という作品の構造がより立体的に見えてくる。

そもそも人間は、世界を認識するためにさまざまな境界をつくっている。
これは布、これは陶器。
これは自分、これは他者。
これは内側、これは外側。
これは自然、これは人工。
これは身体、これは物。
私たちは物事を分類し、境界を設定することで、世界を理解している。
しかし、その境界は本当に絶対的なものなのだろうか。
田中の作品を見ると、「布のように見える陶器」という小さな違和感から、自分自身がどのように物を認識しているのかに気づかされる。そして、ひとつの境界がずれるだけで、同じものがまったく違ったものとして見えてくる可能性に気づく。
だから、この作品を「境界を壊す作品」とだけ捉えるのは少し違うように思う。
むしろ田中悠の「tsutsumimono」は、
境界があるからこそ、それをずらしたときに世界の見え方が変わる。
ということを、極めて静かに示しているのではないだろうか。

そして、これは単に陶芸だけの話ではない。
人間の身体そのものも、皮膚という境界によって内側と外側を分けている。その内側には、臓器、記憶や感情、意識といった、外側から直接見ることのできないものが存在する。私たちは他者の外側を見ることはできても、その人の「内側」を完全に知ることはできない。
何かを包むという行為は、そうした人間の存在そのものにも重なる。
人間は何かを守るために境界をつくり、何かを理解するためにも境界をつくる。そして同時に、その境界によって見えなくなるものを生み出している。
田中悠の作品は、その人間の営みを「包む」という極めて原初的な行為によって可視化しているように感じられる。
硬い陶で柔らかな布をつくることで、私たちの認識の境界を揺さぶる。
何かを包むことで、内と外の境界をつくる。
中身を見せないことで、鑑賞者の想像を引き出す。
そして、物の境界を少しずらすことで、世界そのものの見え方を変えていく。
そう考えると、「tsutsumimono」は何かを包んだ陶のオブジェではなく、人間がどのように世界を分類し、境界をつくり、その境界を通して世界を認識しているのかを問い返す作品として見ることができる。
作品の中にあるのは、ひとつの余白なのかもしれない。



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